二人いた金日成|虚像伝説によって創られた権力者の英雄伝説
広辞苑によると、虚像とは「比喩的に人や事実とは異なるイメージ」を言い、その多くは思い込みや誤った情報によって作られる。
己の権力を正当化し権力者の地位を堅持するため、作為的に自らの虚像神話を作り出し、国家や国民を支配する手法は、洋の東西を問わず古くから行われている古典的な手法である。
2016,10.20付けの産経新聞で抗日独立闘争の英雄である「“初代”金日成は旧陸軍士官学校出身 卒業名簿に本名記載、伝説的抗日運動家、政権が名声利用」と題し、士官学校23期(1911年(明治44年)卒業)生徒名簿の最後尾に金日成将軍ではないかと目されていた「騎兵 朝鮮学生 金顕忠」の名が見つかったとの記事が発表された。
参照:発見された陸軍士官学校23期生徒の名簿。騎兵の最後尾に「朝鮮学生 金顕忠」の名がある
http://www.sankei.com/world/news/161030/wor1610300008-n1.html
産経新聞の記事によると「金顕忠(ヒョンチュン)」は、大韓帝国であった朝鮮から日本の中央幼年学校に留学、そのまま陸士に進んだ。だが、在学中に韓国が日本に併合(1910年)されたことから、卒業後しばらくして朝鮮に帰り「金光瑞(グァンソ)」と名乗り抗日運動に身を投じたとされている。
そもそも抗日独立闘争は、1910年(明治43年)8月29日に当時「大韓帝国」と呼ばれていた朝鮮が日本に併合(日韓併合)されたのを契機に、朝鮮の独立を願う愛国的な軍人や民間人が朝満国境や朝鮮とソ連国境を拠点に独立の戦いを始めたことに起因する。
やがて日韓併合から10年が過ぎた1920年代に入ると「白馬にまたがった白髪の勇敢な『金日成将軍』が日本軍を打ち破って凱旋してくる」という金日成英雄伝説が朝鮮の独立を願う人々の間に広まった。
産経新聞が金日成とした金顕忠は、士官学校卒業名簿に騎兵と書かれていることから、乗馬と騎兵戦を心得ており、白馬にまたがった老将軍は、金顕忠ではないかと予てから噂されていた。
資料によると「我々の知っている金日成」は、1912年4月15日に平壌西方にある万景台(マンギョンデ)に生まれ、出生名はキム・ソンジュ、「ソンジュ」という音に従って「聖柱」または「誠柱」「成柱」と漢字名を変えている。さらに1931年頃、満州で中国共産党に入党し抗日パルチザン活動に参加したころから「金一星」(キム・イルソン)と名乗り、後に「金日成」(発音は「金一星」と同じ)と改名し満州で抗日闘争に参加していた。
日本が無条件降伏した翌年の1946年10月14日に開かれた「金日成将軍祖国凱旋歓迎平壌市民大会」において抗日独立闘争を勝ち抜き、祖国を解放した英雄としてソ連軍が紹介した「金日成将軍」は、30代なかばとあまりにも若く、人々が噂していた「白馬にまたがった白髪の金日成将軍」とはあまりにもかけ離れ、会場に詰めかけた7万の民衆を驚かせた。
一部ではヤルタ、ポツダム会談で38°線以北を分断統治したソ連が米国に対抗して当時ソ連寄りであった「我々の知っている金日成」を抗日独立闘争の英雄に仕立て上げ、傀儡政権を作ろうとしたとの説があるが、「我々の知っている金日成」は、したたかに中ソ対立構造の中を息抜き、今日の政権基盤を創り上げている。
産経新聞が発表した「二人いた金日成」でも驚くが、金日成将軍は4人いたとする著書が韓国の成均館大学教授を長く勤めた故李命英氏が「四人いた金日成」(成甲書房 2000.9)を著しているからさらに驚く。
故李命英氏によると、金日成将軍の名は、朝鮮独立のために戦った抗日戦士の英雄称号で、「金日成」の英雄称号が与えられた人物が4人いたとしている。その中の一人が、今回産経新聞が報じた「金顕忠(ヒョンチュン)」であるが、4人の中に「我々の知っている金日成」が入っていないことに驚く。
兎にも角にも、「我々の知っている金日成」が東西冷戦と中ソ対立の狭間のなかで、現在の北朝鮮を創り上げたことは事実であるが、産経新聞の報道や、故李命英著「四人いた金日成」を見る限り、年齢や時代考証などから推測するに「我々の知っている金日成」が抗日独立闘争を戦った唯一の英雄であるとする伝説は虚像であり、英雄伝説に疑義が生じたことは確かである。