失敗に学ぶリーダーの条件|全ての思い込みを捨てて客観的に事象を捉えよ

中国・前漢時代の政治思想家 賈誼(かぎ)の「過秦論上」に「深謀遠慮」という言葉がある、「深謀」とは深い見通しを持った謀ごとや計画、「遠慮」とは遠い先のことをしっかりと考えることであり、二つ繋げると「深謀遠慮」(遠い先のことまで見通した深い考で、しっかりとした計画を立てる)の意味になる。この場合、遠くを思い図って計画を立てるには、今をどう理解するかが重要なキーポイントになる。

戦史「ノモンハン事件」に学ぶ

1939年5月11日、フルンボイル平原のノモンハン周辺でモンゴル軍と満州国軍の国境警備隊の交戦をきっかけに、日ソ両軍が大量の戦車や航空機を投入する国境紛争の域を越えた大規模な戦闘が行われた。

ノモンハン事件は、日ソ両軍が初めて大量に戦車や航空機を投入した近代戦でもあったが、結果は8月20日にソ連軍が大規模な攻勢に出て日本軍守備隊を圧倒、ソ連戦車の前に守備隊の70%が死し、組織的戦闘力を失った日本軍は後方に退却、9月16日に停戦が成立し終結した。

当時、千葉戦車学校から戦車戦の運用研究のため3名の教官が派遣され「戦車単独で陣地攻撃を行うソ連戦車に対して、陣地を死守する歩兵が火炎瓶と速射砲(対戦車砲)で戦い一定の戦果を得たが、戦車戦では、長身砲を持つソ連戦車が我が戦車の射程外から射撃、次々に撃破された」と報告した。

報告を受けた軍首脳部は、明治時代から仮想敵国としていたソ連(ロシア)に対して負けを認めることを恥と考え、戦車戦で負けたことを伏せ、損耗率70%を出して戦った歩兵の活躍を拡大評価し、「日本軍伝統の歩兵戦こそ日本の戦い方である」とノモンハン事件の評価を下した。

このため、訓練の重点も旧態依然とした「行軍、一発必中射撃、精神教育」が中心のまま、2年後には近代戦の戦いである太平洋戦争と突き進み、1945年8月15日の終戦となった。

当時、司馬遼太郎は第一戦車連隊の小隊長として、玉音放送を栃木県佐野市で聞いたが、その時の感想として「近代化を推し進めて、日清、日露の戦いを勝ち抜いた明治の群像に思いを馳せ、何故日本人は愚かになったのだろうか」と思ったそうである。この時の思いが名作「坂の上の雲」の創作につながったとの説がある。

カイゼンという言葉があるが、ソ連軍はノモンハンでの最初の衝突から、わずか3か月の短い期間に、日本軍の火炎瓶攻撃で簡単に炎上したガソリンエンジンの戦車をすべてディーゼルエンジンに変え、日本軍の火炎瓶攻撃に対処した。この時点でソ連軍指導部は、戦車の弱点に対する情報を素早くキャッチし、カイゼンにより、新しいものを作り出した。

敗北や失敗の原因は情報不足と判断ミスに起因する場合が多い。失敗を認めず思い込みだけで判断すると、現実を直視できなくなり、視野が狭まり、カイゼンは行われない。失敗は失敗として正しく認識し、失敗の原因を追究、カイゼンを図ることが重要である。

特にリーダーは、あらゆる事象を的確に把握し、遠い先のことまで見通した深い思慮で現実の問題に対処し、カイゼンを図り遠い先まで見通した計画を立てる必要がある。

常に「深謀遠慮」を忘れず、失敗を恐れず認めることが、不透明な社会に生きる企業リーダーの必要条件である。